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国語学原論〈上〉 時枝誠記や三浦つむどう考えたのか

国語学原論〈上〉 時枝誠記や三浦つむどう考えたのか Posted on 2021年3月18日Leave a comment

国語学原論〈上〉 時枝誠記や三浦つむどう考えたのか。時枝は、「象は鼻が長い」について、『国語学原論』の文法論で、次のように記しています。ウナギ文や象鼻長文( )時枝誠記や三浦つむどう考えたのか

?僕ウナギだ
?象鼻長い
?コンニャク太らない 国語学原論〈上〉。激しいソシュール批判は執筆当時にあってはきっとぜひ必要なものであったと
思うし。ソシュールの重要性は。後世。レヴィ=ストロースやロラン=バルト
など異分野の人々に転用されることによってその値を高めた気味もあり。日本語
が使時枝?服部論争の再考察Ⅲ。前回は。時枝誠記。服部四郎らによってなされた言語学的な視点での。 時枝学説
の是非そこで問題は。著者が詞辞論と関係があると考えた 指示表出とに
なっている事柄であるのか。それとも。三浦つとむ氏や。時枝の品詞分 類論の
よう

日本人のためのラテン語。そこで。ここでは時枝誠記が提唱し。三浦つとむが批判的に発展させた「言語
過程説」を中心に概要だけを説明します。ここで「表現対象」とは。現実に
存在するものであれ。空想で考えたものであれ。客観的に捉えたときの対象を
指しています。これは言語の種類によって。何をどうグループ化するか異なっ
ています。

時枝は、「象は鼻が長い」について、『国語学原論』の文法論で、次のように記しています。国語に於いては、主語は述語の中に含まれている形に於いて述語に対立しているものと見なければならないのである。従って、判断的陳述の対象が、すべて述語格であるといっても、それは決して主語の存在を無視したことにはならない。……例えば?象は鼻長し。」という文をその最も簡単な表現から順次分析してみるならば、長し………………[長し」■「長し」は述語格鼻長し……………[[鼻]長し]■「鼻長し」は全体として述語格であるが、その中に主語格である〔鼻」と、それを含んだ述語格である「流し」を区別することができる。象は鼻長し………[〔象〕 は 鼻長し]■「鼻長し」全体が一の詞として述語格であると同時に、「象は鼻長し」が又全体として述語格となる。右の如き構造は、述語が主語を分立し、更にその主語を含めて述語となり得るという性質を考えずしては不可能なことである。三浦は、次のように解明しています。日本語の表現構造には「――は――が――」というかたちをとる場合が非常に多い。英語の文法などを学んだ人々にとっては、これが奇妙に映るようである。「象は鼻が長い」について、草野清民が「象」を総主と名づけて以来、この構造は文法学者の間でいろいろ論議されている。たしかに、文は主語と述語から成立するものだという考えかたでこれを見ると、三つの項から成立していて主語らしきものが二つもあるから、異常に見えることは確かである。だが主語に対する述語という考え方は、いわばスーツケースの標準規格のようなもので、風呂敷を使うときにはスーツケース的に見えるときもあるがそうは見えないときも多いから、形式論をふりまわして日本語の表現構造を解釈しようとすることに問題がある。内容のどのような構造がこの形式としてあらわれているのか、それを考えなければならない。われわれの言語表現は、立体的な認識構造を線状的に単純化してとりあげるという要求にこたえるように努力している。判断の違いに対して係助詞といわれるものを使いわけるのは、対象の構造に主体的表現を対応させる日本語の特徴的なありかたであって、これを利用するところに立体的な対象に対する立体的な認識構造を単純な文で示すという独自な形式が生まれたわけである。として、「父[は]頭[が]白い。」について、次のように説明しています。「父」と「頭」は一つの実体の全体と部分の関係にある。ここでの「は」は特殊性をとりあげるものであって、「父」のからだの特徴的なありかたについて語ろうとするもので、それが「頭」に結びついている。そして「が」はそれらの特殊性そのものをさらに目に見えるような現象の面から取り上げ、個別的なありかたにおいて扱うのである。「頭」を見れば現象的に「白い」のである。 対象はまずその特殊性において、さらに特殊性の側面の個別性においてニ重にとらえられながら一つの文に統一して表現され、立体的な認識が「は」と「が」の使いわけで区別して示されている。「反作用はつねに作用と方向が反対で大きさが等しい」という科学の法則の表現も、やはり立体的な認識を扱っている。「は」は普遍性をとりあげて「つねに」以下にむすびつき、普遍性の中での部分的な現象をとりあげるときに「が」が使われている。いうならば、「――は――が――」の形式は、日本的なスーツケースとして独自性を持つと見るのが適当であろう。助詞について説明しながら、この形式について正しく解説することが、文法書の任務であるように思われるのである。そして、先の時枝の説明に対し、この二重の把握の統一を、時枝は入子型構造の例としてとりあげているが、判断の違いにまですすんではいない。とその限界を指摘しています。ウナギ文については、時枝は特に言及していませんが、三浦は膠着語特有の省略の例としています。■

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